当人が望むなら・・・という気持ちが分かった気がした

昨年。
22歳ながら発達障害を苦に自殺してしまった方のことを記事にしました。
“人生を諦めた心の叫び”

で、このとき。
Twitterかなんかを見ると、「こういう人に『生きていて欲しかった』とか言うのは逆に苦しみになる」みたいな意見を目にして葛藤したのですよ。
こちらとしてはそういう意図はまったくないのに、そういう風に思う人がいるってことが。

ま、本人からしたらそっちの方が苦しまなくて済むと思って自殺を選んだわけだから、それは尊重するという意見があっても当然だとは思います。
こればかりは当人にしか苦しみは分かりませんし。

ただ、そうは考えてもどこか納得はいきませんでした。
俺の場合、やはり生きていれば何かしらの道はあると思っているから。

しかしそれからしばらく経った後。
これに近いというか似たような話を思い浮かべたのですよ。
例えば俺って皆さまからみたらずいぶんと寂しい生活を送っているように見えるかもしれません。
毎日ブログを更新してもコメントをもらうことなどめったになく、一人寂しく更新し続けている。
また生活では友人たちとも交流することなく、日々やっていることはネットやゲーム。
脂が乗っているまともな40代からしたら、ひどく寂しく哀れな生活に見えるものだと思います。

と、そんな俺を見て、リアルが充実している友人なんか気を遣って
「お前ももっとこっち来いよ!」
と飲み会みたいなもんに誘ってくれたとするじゃないですか。
友人は良かれと思って。
しかし・・・俺にとってはありがた迷惑なんですよね。
まったく嬉しくないというか、そんなもの望んでいないというか。

正直な話。
俺はろくでもない生活を送ってはいますが、そこまで絶望はしていません。
生きることが出来てこうやってブログを書くことも出来る。
世の中には突発的なアクシデントやトラブルで命を落とす人もいることを考えると、俺みたいな人間がこうやって生きていること自体が幸せだと思わずにはいられないのですよね。

で、いまさら誰かと飲み会とかする気分でもなくて。
そんなのをやるんだったら、部屋でゲームでもしていた方がよほど楽しいのです。

と、そんなことを思うと、人生に絶望した人間に対して「生きていてほしい」というのも、それに似たようなもんでこちらのエゴというか、勝手な思い込みなのかなと。
俺が出した例とではスケールがまったく違う話ですが、要は「何が幸せか」は人それぞれ違うわけで、良かれと思ってやった事でも、それを相手が望まないのなら逆効果でしかないような気がしてきました。
基本、手を差し伸べるのは相手から助けを求めてきたときで、それ以外は放置でいいと俺は考えます。
冷たいと思われるかもしれませんが、そっちの方を好む俺のような人間がいるのも事実なんです。

何を望むのかは当人にしか分かりません。
だから良かれと思って言ったことでも受け入れられないことがあるというのは、頭の片隅に置いておくべきなんでしょうね。
そうすれば望まない反応が来たときでもショックは少なくて済むでしょうから。

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