きょうはまずこちらの記事をご覧ください。
永野、覚悟を決めて友人への積年の思いを吐露「この放送が流れたら絶縁になると思う」
数日前にスマホで流れてきて読んだ記事なんですが、もうおもいっきり染みましたねぇ・・・。
同じような経験がある身としては。
俺が友人とサシで最後に飲み会をしたのは2014年。
この日の1次会は友人に奢ってもらいました。
その時に友人から“奢ってやってる”という感じは俺は受けなかったのですが、この飲み会が終わった後に改めて抗えない現実を突きつけられたような気がしたのですよ。
勝手な被害妄想と言われればそれまでなんですが(笑。
当時の俺はバイトなんかで働いたとしても時給800円程度。
かたや友人は50~60万円以上(たぶん)の月収。
俺のスペックではどこぞの正社員になることも出来ません。
なのでとにかく金を稼ぐとしたらバイトでダブルワークでもするしかありません。
しかし、それをやったところで友人の月収には追いつくには厳しいということを知り、虚無感に包まれたのをよく覚えています。
それで俺もこの後に思ってしまったのですよ。
「友人に奢られるのって気持ちよくねぇな」と。
収入の差はあれど正社員同士でお互いに働いていているならちょっと奢られても気にはならないと思うし、昔は実際そうだったのですよ。
しかしこれが「無職」と「正社員」になると・・・。
関係性がまったく変わってしまいました。
まぁこればかりは無職になった俺が悪いのでどうしようもありません。

で、永野さんも俺と同じように、
「だんだん嫌になってくるんですよ。奢られることが情けなくなってくるというか」
(*上記リンク先から引用)
と語っていて、正にこれはその通りだなと。
昔は自分もお金を出して飲んでいたのに、それが奢られて1円も出さない側になってしまう。
対等な立場からの転落を感じれば情けなくならざるを得ません。
ちなみに自分は過去にこういう記事を書いています。
「“借り”というのは重いから作りたくないと知る」
「飲みの席で奢られ続けるのはイヤ」とか書いていて、やはり友人に奢られ続けるというのはそう簡単に受けいれられるようなものじゃないと思います。
それと今回の永野さんの話で、もっとも同感してしまったのがこちら。
“永野は「この放送が流れたら絶縁になると思う」と覚悟のうえで、「自分はこういう仕事だからか、ずっと高校生のような感覚なんです。一方、51歳で家庭もあって社会的地位も高くなると、高校生のままの自分とは会話も合わない」と思いを打ち明ける”(*上記リンク先から引用)。
これ、俺も最近同じような事を度々考えることがあります。
50歳近い年齢だけど、中身は中三ぐらいでしかないなと(笑。
それぐらい中身が薄っぺらい。
というのも、やはり日々真っ当な社会生活を送っている人間と、俺のように社会に適応できずに家にいる人間とでは、経験値というか感覚がとんでもなくかけ離れてしまうものだと思います。
「働く」という事からすっかり降りてしまうとかなり致命的で、その感覚というか価値観は働いていたころのようには戻りません。
この頃はそれを痛切実感する日々です(苦笑。
だから高校生のままの自分と、社会的地位のある51歳との会話が噛み合わないというのはすごくよく分かるというか理解できる話です。
これについては数年前にも書きましたが、例えば友人がこの先の人生についての深い話をしたいのに、俺ができるのはゲームの話だけしかないというか(苦笑。
学生のころとかはそれでも良かったのでしょうが、50歳ともなるとねぇ・・・。
それだけではあまりにも厳しい。
でもお互いに過ごしてきた時間の濃密さや人生経験が違うからどうしようもないと。
これが現実なのです。
というわけで、こういう風になってしまったら後は自然にフェードアウトの流れなのかと。
でもそれで良いと想います。
無理に会話が噛み合わない状態で会ったってお互いに楽しくないでしょうし。
たぶん俺は友人たちと再び会うことはなく、そのまま人生が終わると思います。
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