仕事における“修行”の意味を考えてみた

この前。
西条真二先生の「大棟梁」というマンガの1巻を読んでいたら、「あっ」と思わされた部分がありました。
それは見習いである主人公の給料。
(当時の)大工の世界のシキタリでは見習いには小遣い程度の金額しか出せないとのことで、給料は1ヶ月3万円。
親方は申し訳なさそうに説明していたのですが、それを聞いた主人公は「はい、構いません」とそれを了承。
近くにいた同年代の同僚は「お前、1ヶ月3万円でガマンできるの!?」と問いただしました。

するとその主人公。
「全然平気!」
「だって俺は金が目的で大工になるんじゃないもの!」
「お金は、一人前の大工になってから稼がせてもらいます!!」
と、ビシッと言い放ったのです。
これを見た瞬間、
「昔の時代の修行って、こういう感覚だったんだろうなぁ」
なんてことを感じました。
要は修行=“勉強させてもらっている”であるから、給料は低くても構わない。
そういう世界だったんじゃないかなと。
(*住み込みで朝・晩の食事も用意してもらえる場合)。

で、なんでこの話にビビッと来たのかというと、この前もちょこっと記事にしましたけど、あるラーメン屋さんで修行制度をやっているのですよ。
んで、去年に弟子のA(仮名)って奴に店長をやらせて店を立ち上げました。
Aは数年前から社長の大ファン。
それに憧れて弟子になったとのこと。
そして「これからバンバン店を増やしていくぞ!」とYouTubeなどで言っていたのですが・・・。

それからおよそ2ヶ月後。
なんと店長であるAがいきなりの退職。
その後、“給料未払い”があるとかで弁護士に相談するなどして、その界隈が多少炎上した模様。

Aの言い分は「8時間労働を超えた場合の残業代はもらえると聞いていた」そうなのですが、実際は1日18~21時間働こうが、残業代は一切もらえなかったとのこと。
またこの事以外でもトラブルがあったようで退職に至ったみたいです。

と、そんな話を聞いた当初はあまりピンとは来ていなかったのですよ。
ネット上では社長に対し「時代錯誤」的なコメントも見られたのですが、俺はまぁ「ふ~ん」という感じで。
片方だけの言い分だけじゃなんとも言えないですから。
しかし、先の大棟梁の主人公の考え方をみて、ようやく分かりました。
というのはこれ、おそらく社長側は昔の感覚のままで「修行」をやってしまったんじゃないかと。

実際、この社長も弟子の時代には月の給料3万円、休日なし、睡眠時間3時間で働いたみたいなことを言っていました。
それを半年以上続け師匠から認められて“のれん分け”されたそうです。
で、これが出来たのは主人公と同じような考えを持っていたからでしょう。
修行=技術を教えてもらっている。
他のラーメン店主でもこういう修行をした人を俺は知っていますが、「今から振り返ってみるとよくやれたなぁ」なんてことを言っていました。
家に帰るのは寝るためだけの生活。
それをその方は3年ぐらい続けたって言っていましたから・・・。
圧倒的な犠牲的精神です。

ただ、社長はそう考えていたにしても、弟子のAはそうは思っていなかった。
まぁ今の時代、昔みたいな修行制度はもう無理でしょうね。
「それでもいい」と当人が望むなら別ですが、これが実際にやってみると早々やれるもんじゃないのですよね。
ちなみに信じてもらえないとは思いますが、俺もクソ社長の下に行く時はこのぐらいの気持ちでした(笑。
「相手にされなくても構わない。雑用でもいいから行く」
と。
その結果がコレですよ。
まぁざまあないというか、とことんアホで本当にすいません。

とまぁ、そんなわけで今の時代には現実的じゃないにしても、昔の修行制度ってある意味素晴らしいと思いました。
「金のためじゃない」や「一人前になってから稼ぎます」とか。
半人前のままで生きている俺にとっては、久々に心に刺さった一言でした。

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