人の生き死にに接する仕事だと気づく

前回の続きです。

 
葬儀社が父の遺体を引き取りに来るまで荷物をまとめたりしていましたが、そんな中で感じ始めたのは「看護師さんたちは仕事でやっている」ということでした。
端的に言うと、自分や母といった家族と同レベルの悲しみを持ってはいないということです。
赤の他人だから至極当たり前のことなんですが。
 
 
 誤解のないように書いておきますが、このとき接した看護師さんたちに問題があったということではありません。
ただ・・・、なんとなく言葉の端々というか雰囲気から、どこか乾いているというか・・・なんかそんなことを感じたのです。
そしてよくよく考えてみれば、こういう緩和ケア病棟を担当している看護師さんたちはこういう人の死に目に遭遇することは決して珍しいことではないと気付きました。
余命が決まっている人たちの世話をしているから、普通に入院している・治療している患者さんと接している看護師さんたちよりは間違いなく多いはず。
自分はこのとき父が亡くなったことが、40年以上生きてきて初の『肉親との別れ』で、心の中では想像を絶するショックを受けていたと思います。
でも看護師さんたちにとっては、ある意味よくある日常とでも言いますか・・・。
自分と看護師さんたちの気持ちの温度差に気付いたとき、なんか「フッ」と少し正気に戻ったような気がしました。
 
 
 そしてこのときに味わった気持ちは、この父のことを触れるにあたり最初の方で書いた「家族じゃないとこの辛さは分からない」のとおり、自分と同レベルの悲しみを抱くことは不可能なことだと気付いたときに、「1人で背負っていかなければいけないこと」だと分かって胸にしまいながら過ごしたわけです。
このときはそんなことも思い出しました。
 
 
 が、繰り返しになりますが、これは当たり前のこと。
むしろ、それこそ看護師さんたちに号泣でもされようなもんなら、逆に引いていたと思います。
しかも病棟を移ってきて1日目で、父になんの思い入れもないはずの看護師さんたちに露骨に悲しい演技のようなものをされていたら、逆に気持ちがスーッと冷めていたのは間違いないでしょう。
だからこれはこれで良かったというか、至極普通のことだなんてことを思いつつ、部屋を片付けたり荷物をまとめたりしていると、あっという間に葬儀社が来る9時30分に。
 
次回につづく

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