家族じゃないとこの辛さは分からない

父が末期ガンになったシリーズの続きです。

父から余命半年であることを聞かされた途端、小さいころからの父と過ごした記憶がよみがえり、涙がこぼれた自分。
このとき、ある真実に気付かされました。
それは、
「この悲しさは、父と一緒に過ごした家族や兄弟でないと絶対に共有出来ないものだ」
ということ。

20年ぐらい前のことです。
友人とドライブ中、友人から突然、「親父が胃ガンになった」との話が。
友人の家に遊びに行った際などには顔を合わせることもあったお父さんです。
それなりに面識があったため、自分も当然悲しい気持ちになりました。
で、このとき、自分も祖父をガンで亡くしていたため、そのことをちょっと引き合いに出したのですが、友人から言われたことは、「じいちゃんと比べられてもなぁ・・・」といった意味合いのことでした。

まぁ友人としては、実の父親なだけにもっと深刻な問題であるということを自分に伝えたかったのだと思います。
が、このときの自分はそういう意味合いにも気付くことなく、ただただ祖父と比較してしまったことを申し訳なく思っていました。
でも、実の父が末期ガンになってしまった今なら分かります。
それはこの当時、友人と同レベルの悲しみを感じることは不可能であったということ。
というのも、やはり悲しみを感じるポイントは、やはりその人とどれだけ一緒の時間を過ごしてきたかどうかで・・・。

 

 

いま、冷静にその友人のお父さんと自分が一緒に過ごした時間を考えてみると、合計してもおそらく3時間未満だと思います。
それに反して友人は生まれたときから何十万時間も一緒に過ごしてきたわけです。
これを踏まえれば、感じる悲しさに圧倒的な温度差があるのは避けられないことだし、他人にそれを求めるのは酷なことだと気付いたのです。

と、そんなことに気づき・・・。
自分は、父のことを友人たちに伝えるのはやめておくことにしました。
悲しみを共有するのは無理だし、言われたところで友人たちも困るだけだろう思ったのです。
だからこの件は自分の中だけに留め、背負っていく問題だという結論に。
そしてこの後、そんな気持ちを抱えながら数ヶ月過ごしていきました。

次回につづく

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